唐人屋敷跡

穴場スポット

堀と塀で囲まれた中国人の居住地

中国からの唐船は、1571年(元亀2年)の長崎開港に伴い来航数が増えていきました。
江戸時代の1635年(寛永12年)以後、唐船の入港は長崎のみに限定されましたが、中国人は元禄時代前まで市中に散住しており、密輸やキリスト教浸透の恐れ、風紀の問題等のため、1689年(元禄2年)に中国人を隔離居住させることにしました。
これが「唐人屋敷」です。

つまり、出島に隔離されたオランダ人と同じように、中国人もこの唐人屋敷に隔離されていたということです。

現在は、その名残はあまり残っていませんが、土神堂、天后堂、観音堂、福建会館の四堂のみが修復改築されています。

そんな唐人屋敷跡を覗いてみます。

まずは、唐人屋敷につながる広馬場商店街の入口にある唐人屋敷象徴門(誘導門)です。
石造りの門がまるで唐人屋敷跡の存在をアピールするように建っています。

広馬場商店街を抜けると唐人屋敷の入口に高さ8.7mある唐人屋敷象徴門(大門)が建っています。
いよいよここからが唐人屋敷です。

土神堂は、1691年(元禄4年)9月、土神の石殿を建立したいという唐船の船主達の願いが許され建てられました。
数回にわたり、華僑により改修されましたが、1950年(昭和25年)に解体され、しばらく基壇だけが残っていましたが、1977年(昭和52年)に復元されました。

長崎の墓は、文字が金色で、墓石の脇に土神様が祀られていますが、これらは中国の影響を強く受けているようです。

土神堂から天后堂へ向かう通りは、最近まで銭湯もあり、どこか懐かしいノスタルジックな町並みです。

天后堂は、1736年(元文元年)、航海安全を祈願し、天后聖母(媽祖、天妃)を祀るために建てられました。
媽祖はそれまで崇福寺に祀ってありましたが、唐人屋敷から自由に出られなくなったため、唐人屋敷内にお堂を建てる必要がありました。
現在の建物は、1906年(明治39年)、全国の華僑の寄付で建てられたものです。

媽祖の両脇に、侍女、その前に千里眼・順風耳が控えていますが、これは、中国湄州の桃花山で悪事を働いていた金精(千里眼)、水精(順風耳)という妖怪を媽祖が退治し部下にしたという伝説によるものです。

天后堂には、三国志で有名な関帝も併祀しており、別名「関帝堂」とも呼ばれています。

唐人屋敷の四隅には、境目を示す碑が設置されています。

観音堂は、石碑の刻字から、1737年(元文2年)に建てられたものと考えらています。
現在の建物は、1917年(大正6年)に中国商人の鄭永超によって大幅に改築されたものです。
本堂には、観世音菩薩と関帝、千手観音が安置されています。
基壇には、「合端積み」という沖縄でよく見られる石積技法が用いられています。
また、入口のアーチの石門は、唐人屋敷当時のものと言われています。

福建会館は、そもそも1868年(明治元年)に福建省泉州出身者が八閩会を創設した際に会所として建設されたもので、1888年(明治21年)の火災で焼失し、1897年(明治30年)に再建され、会の名称変更に伴い「福建会館」と改称されました。
唐人屋敷時代の聖人堂(孔子を祭る堂)の跡と言われています。
会館本館の建物は原爆で倒壊し、現存するのは正門と天后堂等です。
正門は、中国風の要素も若干ありますが、組物の形式や軒反りの様子、絵様の細部など主要部は和様の造り。
天后堂は、煉瓦づくりの架構法等は中国式を基調としていますが、一部、木鼻や欄間は和様。
このように、様式的には和・中の併存であり、中国との交流の歴史が凝縮されています。

中国革命の父と言われている孫文も長崎には9回訪れており、この孫文の銅像は、2001年(平成13年)上海市から日中友好の印として長崎県に寄贈されたものです。

唐人屋敷跡には、所々にしか当時の面影が残っていませんが、ここから多くの中国文化が長崎に根付いていったのは間違いありません。
是非当時の様子を思い浮かべながら歩いてみてください。

基本情報

住 所〒850-0906 長崎県長崎市館内町
電話番号長崎市文化財課:095-829-1193
アクセスJR長崎駅より路面電車(崇福寺行き)に乗車、「新地中華街」電停下車、徒歩8分

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